数年来心に温めていた奥琵琶湖湖北の隠れ里菅浦の文化的景観と、淳仁天皇が奈良時代孝謙天皇、道鏡、恵美押勝に敗れ菅浦に流され廃帝になった悲劇の地須賀神社(歴史の教科書では淡路に流され淡路廃帝となっている)の隠れ里はひっそりと中世の面影を残していると云われ重要文化財景観指定地区「菅浦」へ。井上靖「星と祭り」芝木好子「群青の湖】白洲正子「隠れ里」」を読破後足を踏み入れたい場所の上位を占めていただけに念願かない(o(^ー^)o)ワクワク。特に須賀神社参拝の思いが膨らむ。




【高島のあどのみなとを漕ぎ過ぎて塩津菅浦今かこぐらむ】(万葉集九巻小弁)淳仁天皇を
島流しにした後今度は恵美押勝が上皇方と戦って敗れ菅浦あたりを
敗走の情景を詠んだ歌らしい。須賀神社の境内の碑。



淳仁天皇の悲劇の地を一人旅でこの神社を訪れたと云う大津の男性は「拝殿までの石段が長いのでご無礼」と云って別れる。天皇とは名のみで孝謙上皇、道鏡の中をいさめた為追われる身となり天皇が流れ着いて仮の都を築いた伝説の「隠れ里菅浦」神社は村の中心的存在で廃帝淳仁天皇が祀られている。教科書では淡路廃帝と思っていたが淡路淡海か先祖の言い伝えを信じ御陵を守り続けていることが住人の矜持で有ろう。
    【参拝は古来より雪、雨天候や身分の差に関係なく土足厳禁で素足での参拝がルール】
参拝は土足禁止。作法通りの参拝を済ます。心身を清めるとともに神域清浄保持の為、又
帝に拝謁の為の当然の礼儀との説。社殿には賽銭箱も皇室の菊の御紋。
琵琶湖名産尾(うろり)を買った佃煮店のおばさんとの立ち話によると奈良時代から100軒〜現在70軒足らずの人家。50年毎の御遷宮の維持はあらゆる面で負担がかり1250年以上守り続けてこられ集落に
不釣り合いの神社の立派さは神秘性を高めている様な感じを受ける。


【菅浦の湖岸集落は平成26年重要文化財景観指定】


70軒足らずの集落は一周して1時間足らずで全部落を歩く事が出来る。平地が少ない為沿岸に集落が密集。民家は石垣を積んだ上に一列に並び石垣で囲んだ集落の様なのは護岸の役割らしい。芝木好子「群青の湖」のヒロインが死に場所を求めてさまよった地は、又、群青の湖面を見つめる場所はどの辺りかと思いを巡らせ山すその湖岸部落を巡る。
奈良時代より1,250年以上100軒から70軒前後の戸数を維持している特殊なな集落は「土地は個人の所有物ではなく部落全体の財産との考え方から売り買いは×外部の人間は入り込めず小さな土地を守っていくために長男のみの土着を許されていた。その為に開発が及ばず手つかずの外観が残った(案内資料より)」

棟札から東門は幕末期の文政11年8月吉日再建と記述

掟に背けば定めに従い裁かれた

西門

西門
四足門で固め独自の政治がおこなわれ平安時代の文献に記録が残っている古い村だと云う事です。四足門は中世から明治維新まで(東西南北)にあったのでこの名がつき現在は東西のみ存在。菅浦自治の境界で村への出入りが厳しくチェツクされ菅浦だけの自治が成立していたとの事です。