さくら咲く安土城址


 スケールの規模は前代未聞「安土城」は幾度物語などで見聞きしたことか。さくら咲く春爛漫の「安土城址」「天主閣」へ。本能寺の変で城完成から3年であっけなく迎えた信長の終焉の石垣のみの残る安土城天主址へ400余段の石段を登る。、大手道を登るとすぐ左手に伝羽柴秀吉邸址、右手に伝前田利家邸址、その先は伝徳川家康邸址でハ見寺仮本堂が建ち満開の桜越しに屋根、鐘楼が見える。石段の足元に所々石仏が見受けられ無神論者と云われた信長のなせる業かと勘繰るが(石段石垣等の転用石として石仏、墓石、石棺等当時は城造りに使用した・・・・・・・云々参考資料)信長に限ったことではないらしいが、安土の礎石の一部は百済寺の石垣を引き抜き築城し石曳の道を経由し搬出されたと云う文献を思い出すにつけ山本兼一著「火天の城」の城郭要塞の建立を任された大工の棟梁岡部又右衛門が信長から(山一つ城にせよ)との厳命の下着手した経緯や「木くみは心くみ」又右衛門の心意気が伝わる名場面の箇所を思いおこし天主跡を目指す。




メインストリート最初の大手道に【伝羽柴秀吉邸址】


秀吉邸と向かい合う形で信長の重臣【伝前田利家邸址】


 家康邸址に建てられたハ見寺本堂は天主崩落の際奇跡的に残ったがその後2回の火災で焼失。昭和7年に徳川家康邸址に信長の菩提寺【ハ見寺仮本堂】として建てられた。安土城址はハ見寺の私有地と聞き驚きです。


 二の丸付近に茶人としても有名な祐筆の【伝武井夕庵邸址】。信長の信任が厚く天守を天主の文字に変えたのも夕庵との説も有りその上部に 信長の長男【伝織田信忠邸址】本能寺の変で奮戦するが衆寡敵せず自害26才 。

 
 大手道を上っていくと多くの「石仏」が見受けられ踏みしめて登って行くのは気が気が咎められる。本丸に通じる二の丸手前「仏足石」は大手道に見られる石仏同様築城当時石材として石垣に使用され昭和初期登山道整備時付近の崩れた石垣から発見され【室町時代中期の数少ない貴重なもの】と立て看板から読み取る。


左写真「黒金門」は中枢である天主閣、本丸、二の丸、三の丸へ続く重要な門。右天主閣址への石段を登る。

 信長公の「本廟」は中に入ることはできませんでした。本能寺の変後秀吉が信長ゆかりの(太刀、烏帽子、直垂等)品を埋葬した廟は二の丸跡にありました。遺体がないのでどこに行っても墓と名の行くものは存在しないと思います。


 天守台の石垣と礎石。高さと幅はもっとあったようです。天主を取り囲む石垣は保存状態が悪いのか高さは低くなっていると聞きました。宣教師ルイス・フロイスがヨーロッパにも無いほどの壮大さと本国に伝えたと云うその敷地に立って信長の夢は3年で焼失のはかなさに幸若舞「敦盛」を口ずさむ。


 本丸跡より琵琶湖を望む。開拓された近江平野を眼下に見る。


 三重塔1454年建立の建物を甲賀から安土城築城の際移築、仁王門は1571年の建立。(共に国指定重文鎌倉時代)焼失を免れ当時のままの姿で現存の奇跡と同時に地域の人々の信仰の対象になっている建物まで権力で奪い取る事に驚きを感じます。(我が国で城郭の中に寺院を建てたのは安土城が初めてですが外国では城の中に教会があると宣教師から聞いた信長はそれを模倣をしたのではないかと云われています。安土城発掘資料より)